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釜石環状列石
釜石環状列石 松尾寄木畑地区通称釜石にあり、発見者は柏台の工藤栄三郎氏。昭和27年8月、県社会教育課山内氏、慶応大学江坂教授による調査、同11月県文化財専門委員板橋源岩大教授、慶大松本、江坂教授による予備調査を経て昭和28年5月発掘調査で遺跡の全貌が明らかになった。それによると、この遺跡は縄文末期(2,500〜2,600年前か)の人々によって作られたもので、祭祀跡ではないかと言う説が有力な環状列石(ストーンサークル)であった。列石群の中央のものは直径12メートルもある大型のもので、その中央には火を焚いた跡のある径1.5メートルの石囲いがある。当時、このように完全に保存されたかたちで見つかることは少なく、学術的にも極めて貴重な遺跡であると報告されている。
 しかし、調査結果については概要報告書と関係写真が残るのみで、詳しい報告書は出されていない。また、同時に出土した矢じり、石剣、石棒、石皿、磨石、石匙、小刀や土器土偶なども慶大の考古学教室から戻っていない。発掘現場は埋め戻されているが、隣接のさくら公園の一角にレプリカとして復元されているし、現場の写真の一部は歴史民俗資料館が所蔵、展示している。
【キーワード】 ・縄文・ネイティブ・共生・ストーンサークル・祭り・祈り
 
長者屋敷と古代の攻防
登喜盛の居城 長者屋敷は、坂上田村麻呂の東征軍に抵抗し滅ぼされた大武丸配下の登喜盛の居城との言い伝えがある。先史時代(縄文以前)は原子共産の社会と考えていいのではないか。竹内宿禰が東夷の獰猛さ、野蛮さを伝えた「…男女交り居て父子別なし。冬は則ち穴に宿、夏は則ち樔に住む……」という件は、実は野蛮などではなく、一家が仲良く同居し、冬は暖かい掘り込み式の住居に、夏は高床の庵に住むという、自然に逆らわないすなおなな暮らしの一部を切り取ったものだったに違いない。争いはなく、不安のない日々でありながら、自然を恐れ、自然に逆らわない生活の場であったことだろう。やがて原史、古代と進みこの地は大和朝廷軍を迎え撃つことになる。以来、被征服者の時代の連続で、四度の攻防を経て今につながる。
 人跡未踏の山脈を背負い、水と緑に恵まれた岩手山麓の沃野は広く豊かだった。
 街道筋からはずれたこの山郷には、警戒心とか攻撃性とは無縁の人々が住みつき、長い長い時を経て今がある。地域全体の骨格になり得るテーマだ。
 登喜盛、大武丸などをこの地域の古代のリーダーとしてストーリーを考える。
【キーワード】 ・縄文・共生・大武丸・登喜盛
 
中野吉兵衛と野駄舘
野駄舘 野駄の館跡は野駄森(397m)の北裾に突き出した小高い台地にある。小山の斜面に四段の削平段が確認され、頂上部は長方郭になっている。ここから北西に広がる野駄・平舘田んぼは早くから開けたこの地域の穀倉地帯である。江戸期、この地を治めた南部家の重臣中野吉兵衛は代々家老職を務める家柄で、南部の御三家といわれた。ここには当主が常駐したわけではないようだが、代理の者を居住させたことで野駄舘と呼ばれるようになったらしい。村内には中野家の重臣の家系につながる一族もいるという。
 現在は、代理者が居住したと思われる館を復元し、地区住民が集会やレクリエーションの場として利用している。桜の古木が小山一面を覆い、春には地域随一の花見の名所としてにぎわう。
【キーワード】 ・中野吉兵衛
 
北舘と中松尾の舘群
舘群 中松尾地区は前森山の東麓に張り出した長根の先端にある。その中心の小高い位置に鷲連寺と北舘、赤川を挟んで南に佐々木舘、北には長川沿いに下川舘を配し、東に若宮八幡宮、南に松尾神社、西には山王権現が鎮座するという見事な配置で、集落全体が砦を思わせる作りだ。北舘は南部氏の信任厚く、御三家のひとつとされた北一族の居城とされるが、天正年間に北愛一がここに居たとの説が有力であるものの、居住したかどうかも含めて諸説があり定かでない。
 鷲連寺は現在も地区の菩提寺として親しまれ、山王権現は昭和の初期に長者屋敷に移転、八社を合祀して長嶺神社となった。合祀したとされる若宮八幡宮、松尾神社はそれぞれ松久保家(古川弥志氏)、藤田家(和宏氏)が今もそのまま社殿を残し管理しているが、舘跡はわずかな手がかりを残すに止まる。
 集落の西、前森山に連なる尾根は三方の集落を見渡せる高台となっていて、ここからの岩手山の眺望は抜群。故船越保武氏が別荘としていた建物がある。
【キーワード】 ・北愛一
 
寄木舘と蝦夷舘
舘跡 畑と中沢の間にある寄木舘には寄木左衛門尉義名が居たと伝える。寄木氏は平舘氏と同族で一戸南部の流れを汲む一族と伝えられる。義名は一戸五郎光恒の後胤で信直公に仕え寄木村に250石をいただいて寄木氏を名乗ったようだが、後に不都合があって家禄は没収、お家断絶となったようだ。大字寄木の中心部に「舘」の小字名が残ること、遺跡とされる場所は中心部から大きく外れていること、などから場所については疑問視する人もある。明治5年の絵図には「ヨリキタテ」の書き込みがあるが、寄木は小字五の台、鷹子、舘の地名に囲まれた大神宮を中心に集落が形成されており、中心部の小高い位置に統治者の館あったのではと思いたくもなるのだろう。
 寄木には、松川の南岸に蝦夷舘と呼ばれる舘跡があり、ほかに加賀舘呼ばれる舘跡があるといわれるが特定されていない。
【キーワード】 寄木左衛門尉義名
 
伊那那伊沢神社と為内の一本桜
為内の一本桜 野駄田中にある伊那那伊沢神社は、114代桜町天皇 の御代の創建と伝えられる。明治の初めに秋葉、天王、稲荷の三柱を合祀しているが、伊那那伊(現在は為内)の地は為内山といわれる山の頂にあり、集落から遠く参詣に不便だったため、大正8年になって、熊野権現を祭っていた現在の地に移転新築したという。例祭は6月と9月、五穀豊穣を願い、豊作を祝う祭りの場として、田植え踊りや草相撲などが奉納される。
 元神社のあった為内山は畑となり、神社跡の面影はないが、頂上に一本のソメイヨシノの古木が茂り、樹下には馬頭観世音ほか数基の野仏が並んでいる。平成の初め、小高い丘の牧草地という立地良さと樹形の見事さが写真家の目にとまり、カメラ雑誌で全国に紹介された。以来、地元でも「為内の一本桜」と呼ぶようになった。県内では今ブームといえる「一本桜」のはしりである。
【キーワード】 ・一本桜・伊那那伊・為内
 
大神宮と諸社・巨木群
大神宮と諸社・巨木群 大神宮(天照皇太神宮)は寄木の字中郡にあって天 照大神を祀る。創建は詳らかでないが、境内には目通り4.5メートル前後、樹齢350年を越す杉やサワラの市文化財指定の巨木が並び、その歴史の浅からぬことを物語る。例祭は1月16日と8月16日、学童相撲や郷土芸能が奉納され、冬には厳寒の中で老若男女による裸参りが行われる。
 お伊勢さんとして親しまれている大神宮を中心に、周囲1キロ前後の所に駒形神社が2社、八幡様、八坂神社、岩手山神社などがあり、古屋のツインのイチイや五の平のイチョウ、乳神様で知られる目通り8メートルの井森のイチョウの巨木も近い。
 五の平、鷹子、舘などの小字名からも、古くからの中心集落であったことがうかがえる。
【キーワード】 ・天照大神・お伊勢さん・夫婦杉
 
岩手山神社と旧参詣道
岩手山神社 岩手山の北の登山道は、古くは寄木道が本道だったようだ。北の遥拝所としての新山堂は寄木口の洞ヶ沢、古上坊跡にあったようだ。神仏分離令などによるものかその他の理由によるものか定かではないが、上坊が現在の地に移され平笠道が中心になったと思われる。「巌鷲山北登山口は寄鬼口と號して新山宮の由緒頗る古く、古来より登山参詣者多く……」(平舘・故下川原常郎著『巌鷲山登山参詣案内』)と、寄木を中心に紹介されている。おそらく岩手山神社から松川を渡り、洞が沢に向かう松川沿いにある下坊を通って上坊にたどり着き、米倉の岩塊を間近に見ながら頂上を目指したものと思われる。
 2008年秋、古道調査に乗り出したグループがある。旧登山道復活へ成果が待たれる。
【キーワード】 ・参詣古道・寄鬼口・上坊・下坊・洞が沢

松尾ふるさと案内人 畑健吉氏の監修によるものです。
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